大阪少年サッカーのパイオニア

 


プロフィール

1974.4.1  大阪市立矢田小学校へ赴任。
   2年目から矢田子供会のサッカークラブを指導。
1982.4.1  大阪市立瓜破小学校へ転任。
   同時に、瓜北サッカークラブを設立。
   当時公立の小学校では、課外のサッカークラブはほとんどなく、地域のクラブチームの大会に参加。
   瓜北サッカークラブ設立後、半年で市の大会2位となる。
   以後、クラブチームとの試合を重ねながら、参加したクラブと連携を取りつつ組織作りに着手。
1986.6 「第1回 南大阪リーグ杯」(6チームの参加)を開催。
   12月までに3回の南大阪大会を開催し、参加チームを徐々に増やしていく。
   9月に「ポストイレブン大会」(5年生大会)開催。市の連盟作りに向け努力を続ける。
1986.12.1 『大阪市少年サッカー連盟』発足。
  「第1回 大阪市少年サッカー大会」(市議長杯・5年生24チーム、市長杯・6年生28チーム)を開催。
   春季・秋季リーグを実施。
   市内24チームに呼びかけ、連盟・選抜チームを結成。
   7月に「選抜招待サッカー大会」を長居球技場で開催。
   8月に「少年サッカーフェスティバル」(20チーム約500名)開催。
  「第1回 世界少年サッカー大会記念」を開催。
1990.4.1  大阪市立加美北小学校へ転任。
   加美北サッカークラブを指導。瓜破北小学校へも地域の指導員が見つかるまで指導に出かける。
1998.4.1  大阪市立長原小学校へ転任。
   周囲に「サッカーからは身を引く。」といいながら、前面には出ず指導を継続。
   平野区少年サッカー連盟設立に向けて奔走。
   平野区のサッカーチームと連携を取り、2年足らずのうちに、平野区少年サッカー連盟を設立。
2002.4.12  永眠(享年52歳)

 

こうしてみると山崎先生の教職の歴史は、正に少年サッカーの歴史と重なる。

 

山崎先生がサッカーを通して目指してきたものは、"狭い学校の枠の中だけでは、子どもを語ることはできない”の一点であろう。

山崎先生の指導は、サッカーの場でも、教室の中でも実にソフトな指導であった。

暖かい激励はあっても、山崎先生が子どもを怒っている場面を見たことがない。

天才とは、神から授けられた持って生まれたものでは決してない。目に見えぬ所で努力できる才能こそ天才と呼ぶなら、

山崎先生こそ、今の子どもに合わせた感性を持ち、個々の力を伸ばしていく天才であろう。

 

山崎先生は、学生時代、ラグビー部に所属しており、ラグビーを愛した人間である。

教師となり、子ども達と出会ってからサッカーを通して教育を考えるようになったのであろう。

指導にあたり、猛勉強を重ねてきたに違いない。その結果、山崎先生の指導するチームは、必ずトップレベルの成果を収めてきた。

にもかかわらず、努力の様子を人に感じさせない。山崎先生とは、そんな人間であった。

 

このことは 「大阪市少年サッカー連盟」「平野区少年サッカー連盟」設立に向けても同様である。

設立に至るまでは、自己を滅して奔走した。設立後は自分が前面に出ることはなく、徹底して裏方にまわり、事務局的役割に

終始した。各チームが納得のいく平等な運営を目指し、有意義なゲームをするための原則作りに専念した。

回を重ねるごとに参加チームが増えていったのは、まさに山崎先生の信頼ある運営術に他ならない。

 

今後とも、長原サッカークラブでは、生前 山崎先生が繰り返し話されていた「学校・地域・家庭の結びつきが健全な子どもを

育てる」という遺志を継いだ運営を続けていくことを誓い、山崎先生の死を悼み、追悼の意を表するものである。